2月の坐禅会報告/曹洞禅と布教

立春が過ぎ日によっては暖かく春を予期させる今日この頃です。先日の坐禅会当日も正に暖かい春の陽気を感じさせる気持ちのいい一日となりました。
今回の坐禅会は飛込参加も含めて7名の方が参禅してくれました。参禅してくださった皆様有難うございました。
坐禅を指導している僧侶ならば必ず一度は矛盾を抱える事があるかもしれません。それが曹洞宗がもつ独特の坐禅観が大きく要因しております。これが坐禅を布教する際に難しいところであります。(本山僧堂や修行を主としている道場がある場合は例外とする)
「坐禅は習禅にあらず」。悟りや対象を用いて得る行為を否定しているのが曹洞禅の立場であります(坐禅し菩薩戒を拠り所として生きる事こそ仏である禅戒一如)
しかし、現代社会に生きる「私」たちは相対価値を至上のものとし、文明や思想を発展、進化してきた現実があります(良くも悪くも)。そのため、多くの方に「目的を持つことの許されない行い」というのは理解されないし、多くの人にとって仏教実践とは今まで生きてきた環境否定にも繋がるようなパラダイムシフト(思想変換)をおこすと過程が起こりえます。そのため一部の人は反射的に仏教アレルギーをおこすかもしれません。
しかし、私は「そこ」にこそ仏教の価値があり、仏教のもつこの思想的特徴はいかなる時代もカウンターカルチャーになりえる教えだと思われます。
多くの方が人生に疑問や社会に不満を感じていることは一度はあると思います。仏教とは常に現実社会の半面鏡のような役割を担える存在として、どの時代も残り続ける。「科学と仏教」「哲学と仏教」「人間学と仏教」など、現在は照らし合わせて検証しています。そのような観点から見ても仏教は非常に面白い題材だと思います。
小難しい事は書き連ねてますが、結局のところ住職本人も日々精進の毎日で仏道を歩んでいる未熟ものです。迷いの中にこそ救いがあり、苦楽の中にこそ仏がある。まさに「泥中の蓮」であれ、です。
結局のところ坐禅会を通して、少しでも仏教に興味をもっていただければ私の活動は成功ですかね(笑)ちなみに坐禅会は初心者向けですので専門用語はほとんど使いませんので安心してお越し下さい。
いつも自身の頭と一緒でまとまらない文章にお付き合いいただき有難うございました<(_ _)>
それではまた。
住職 永島 匡宏 合掌
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