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喫茶去/禅語紹介③

地蔵ラテアート

今回紹介する禅語は「喫茶去」

千差万別の価値観を持った方が参拝に訪れる寺院において、中には心無い事をおっしゃる方もいらっしゃいます。どれだけ想いを込めて管理していても、「京都に比べて・・・」「たいして広くない・・・」「こんなもんか・・・」と言われると、僧侶も人の子ですから落ち込んだり、参拝者への対応が億劫になったりするときもあります。

それとは反対に「素敵な庭園ですね」とか「よく管理されていますね」など言っていただくと励みになり、一層参拝者への対応も親身になっていきます。

人間ですから、感情があり、一喜一憂して日々生きるのが普通のことです。しかし、今回の禅語は、違う視点を教えてくれる言葉になります。

今回は、青岸寺cafeの名前にもなっている「喫茶去」という禅語をご紹介いたします。

喫茶去を簡単に直訳すると、「お茶でも飲んできなさい」とうい意味になります。

茶席などの軸によく用いられており、一般的にも認知されている禅語です。

この禅語は中国唐時代(618年~910年)の禅僧・趙州禅師(778年~897年)の語録「喫茶去」の話からきている言葉です。趙州禅師は禅宗の僧侶であれば知らない人はいないほど有名な方です。趙州禅師は「口唇皮上(くしんびじょう)に光を放つ」と評されるほどに豊かでとんちのきいている言葉を用いて禅を説いた方です。それにしても、120歳生きていたとは・・・禅僧は長生きといいますが、それにしても凄いですね。

さて、「喫茶去」は解釈が少し難しい言葉です。シンプルにして奥が深い、そんな言葉になります。

それでは「喫茶去」の語録をご紹介いたします。


趙州禅師語録「喫茶去」

ある時、趙州禅師が来山した修行僧の一人に問いた。

「あなたは今までこの場所に来たことはあるかね?」

修行僧は「いえ、ありません」と答えた。

すると趙州禅師が「喫茶去」とお茶を勧めた。

 

またもう一人の修行僧に同じことを尋ねた。

修行僧は「はい。来たことがあります。」と答えた。

趙州禅師は「喫茶去」と同じようにお茶を勧めた。

 

その後、寺の院主(寺の責任者)は不思議がって趙州禅師に尋ねた。

「一度来た事がある修行僧にお茶を勧めるのはわかりますが、来た事がある修行僧にもお茶を勧めたのはなぜですか?」

趙州禅師は突然「院主さん!」と呼びかけえた。

院主はビックリして「はい!!」と答えると

趙州禅師は「喫茶去」と言い、お茶を勧めた。


以上が語録「喫茶去」の内容です。(省略しております。)

この語録で何を伝えたかったのか。趙州禅師はなぜ登場人物全てに「喫茶去」とお茶を勧めたのか。

ここに禅宗の思想や哲学が垣間見えるような気がいたします。

趙州禅師はどんな境遇の人にも変わらぬ対応をし、まるで竹を割ったかのような禅僧の境地が垣間見えます。

老若男女、貧富、賢愚、職業がなんであれ、とりあえずお茶を勧め、迎える側は粗末なものしかなくても、今あるものを真心こめて差し出す。この境地こそ茶道ではとても大切な心構えとして、広く受けいられているようです。

誰がどんな理由があってもご縁があり出会った方に自分ができるおもてなしをする心。これが喫茶去の境地であり、お茶を飲んだ後は、どうぞご自由にという気概が感じられます。

青岸寺でも多種多様な方が参拝に来山されます。ご本尊さんに参拝に来られる方。庭園を鑑賞しに来られる方。写真を撮られる方、喫茶に来られる方。いろいろな方が目的をもって来られます。

青岸寺は趙州禅師のこの禅僧の境地を尊び、どんな方が来られても「喫茶去(お茶をどうぞ)」の心持ちでお迎えをしようという思いを込めて、寺cafeに「喫茶去」という名前がつけられています。

言葉や環境によって変化するのではなく、どんな時でも今ある自分のできる心がけの気持ちで接すること。その上で後は、そのお茶(心)を受けた人が対処すればいい。そんなことをこの禅語は教えてくれている気がいたします。

住職 永島 匡宏 合掌

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