滋賀県の財政難により、平成17年度から、庭園の維持管理の補助金が援助されなくなりました。国の名勝指定庭園でありながらも、それに伴い、国・市からの補助金も途絶えました。従来は、(有)景樹園様の指導のもと、京都造形芸術大学ランドスケープデザインコースの学生さん達の学習の場として提供していた庭園ですが、それ以降、管理が学生さん達のボランティア活動により支えられるようになりました。しかし、いつまでもボランティアに頼っているのではなく、青岸寺庭園維持の為、自ら財源を確保する手はずが必要であると考えました。そこで、昭和11年に設立されて以来、休眠状態であった「財団法人 青岸寺庭園保存会」を再起動させるに至りました。青岸寺庭園、壇信徒の皆様、学生の皆様等沢山の方々と力を合わせ、国の名勝指定庭園 青岸寺庭園を守り、後世に伝えていきたいです。

宗旨 曹洞宗(禅宗)
宗旨の本尊 釈迦牟尼仏
当時の本尊 聖観音菩薩
宗祖 道元禅師
本山 永平寺(福井県)、総持寺(横浜市鶴見区)

中世、南北朝延文年間(1356年~1361年)この地には当時の近江守護職であった佐々木京極道誉によって建てられた米泉寺がありましたが、永正の初め(1504年)の兵火で焼失し、その時、本尊聖観音像のみが難を逃れたので、その後小堂にて長く祀られることになりました。

永和元年(1375年)佐々木六角氏頼が、荒れていた青岸寺を修復再興し、翌二年に金剛仏師讃岐法眼尭尊に刻ませたのがこの木造聖観音菩薩坐像です。像底部の墨書から仏師尭尊は三条門弟とあり、京仏師の流れをくむ仏師と考えられます。室町時代前期の仏像彫刻の優品です。

永和元年(1375年)佐々木六角氏頼が、荒れていた青岸寺を修復再興し、翌二年に金剛仏師讃岐法眼尭尊に刻ませたのがこの木造聖観音菩薩坐像です。像底部の墨書から仏師尭尊は三条門弟とあり、京仏師の流れをくむ仏師と考えられます。室町時代前期の仏像彫刻の優品です。

像高五十六センチメートルの小さな仏像ですが、腰のくびれや全体のスタイルは美しく、天衣(てんね)・裳(も)は流れるように華麗です。作風から」平安時代末期の彫刻とみられ青岸寺諸仏中最古のものです。一木造り、彫眼で、素地に仕上げられています。

その後は下って江戸時代、彦根大雲寺三世要津守三和尚がたまたま当地を遊行していた折に、朽ちた小堂に祀られた観音像を拝し、ひどく心を痛めまし た。そして慶安3年(1650年)、再興を期して当山に入るも、時に敦賀の在人、伊藤五郎助が師の願行に打たれて尽力を惜しまなかったので殿堂、伽藍はす ぐに建立しました。しかし、五郎助は程なく明暦2年(1656年)に卒したので、守三和尚はこれを悼み、氏の功績を永く伝えたとして諡(おくりな)である 青岸宗天を以って寺名を青岸寺としました。

永正の初めに米泉寺が焼失して以来、150年余りの星霜を経て、再びこの地に復興された寺は、その後、大雲寺末として曹洞宗に属し、また井伊家三代直澄候からも寺領及び援助を賜ったので寺運は隆昌しました。

庭園は守三和尚入山と共に築庭されましたが、後に井伊家欅御殿に楽々園が築かれるに及んで石が取り出されて消滅してしまいました。現在の庭園は当時三世興欣和尚が大雲寺より隠棲するにあたって楽々園の作者、香取氏に命じて延宝6年(1678年)に完成したもので興欣和尚の意図は観音さまのお住まいに なる補陀落山の世界を表現することにありました。

「慈光遍昭」と名付けた永代供養塔です。後継者のおいでにならない方の供養をお寺が引き受けてお勤めいたします。詳しくは当寺までお問い合わせください。(℡ 0749-52-0463)

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