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喫茶喫飯~茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す~/禅語紹介⑧

皆さんごきげんよう。

日本では基本的に朝、昼、夜の三時に食事をとる習慣があります。食事は睡眠と共に私達が健康で生きていく為に必要な大切な事であり、生涯、命ある限り続けていく生命の営みです。

食事は嗜好がもっともバリエーション豊富で、人間の欲望を具現化した代表格です。

そんな食事は禅宗ではどのような対象になっているでしょうか。

曹洞宗では、食事は修行の中でも重要視されています。その証拠に正式な食事の格好は衣に袈裟をして坐禅の形で食事をいただきます。それだけでも食事に対する姿勢が見れます。また作法も細微に渡り決まっており、頂き方も非常に大切にされています。食事の前には偈文が唱えられるなど仏事であり修行の一つが食事なのです。

曹洞宗のいただきます「五観の偈」 $2013 青岸寺公式サイト (seiganji.org)

毎日の営みだからこそ、曹洞宗の修行では欲望が膨張しないような工夫があるように感じます。

さて、今回ご紹介させていただく禅語は「喫茶喫飯」です。訳すと、「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」となります。

もっと簡単に訳せば、お茶を頂くときはお茶をいただき、ご飯を食べるときはご飯をいただきましょう。となります。

この禅語は曹洞宗の開祖道元禅師の4代目のお弟子である瑩山紹瑾禅師のお言葉です。宗門では道元禅師が「高祖」とし、瑩山禅師を「太祖」とし、一仏(釈尊)両祖(高祖・太祖)とされている方です。

瑩山禅師については↓↓↓

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%A9%E5%B1%B1%E7%B4%B9%E7%91%BE

曹洞宗のベースが道元禅師であるならば、瑩山禅師はそれを大衆にも伝わりやすいように教えを説き、多くの優秀なお弟子を輩出し、全国に曹洞宗を布教した立役者が太祖瑩山禅師です。

その瑩山禅師の教えが非常に垣間見えるのがこの禅語になります。

この禅語は瑩山禅師の師である徹通義介禅師の説く「平等心是道」の法を聞き、お悟りになられたそうです。平等心是道は以前も紹介しておりますのでご参考に。

悟りを得た瑩山禅師は師の徹通禅師にその境地を確かめに尋ねた。

瑩山「師よ、私は仏法とはなにか悟りました。」

徹通「どのように悟ったのか言ってみなさい」

瑩山「黒漆(こくしつ)の崑崙(こんろん)、夜裏に走る」

※暗闇の中で黒い物体が走っているようなものである

徹通「まだ足らない、更に申してみよ」

瑩山「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」

※お茶をいただいた時はお茶を飲み、ご飯を頂いた時はご飯を食べる

徹通「お前は私を越える力量がある。道元禅師の正伝の仏法をさらに広めない」

この問答をもって、瑩山禅師は徹通禅師より認められたのです。

さて、最初の文言と後の文言ではどのような違いがあるのでしょうか。

暗闇の中で黒い物体が走る場合、黒い物体が走りぬけても私達はその物体を見る事はできません。また、認知する事も難しいと思います。見えないからといって無い訳ではありません。

崑崙とはなんだか分からずはっきりしないものでありますがそこには完全に有るもの、それを仏教では正法眼蔵涅槃妙心=真実と表現いたします。

真実の仏法とは見えないからといって無いものではなく、「暗いから見えない=無い」ではない。その見識では測れない、無分別の見識でこそ仏法の真髄であると答えたわけです。

その答えを聞いて徹通は「まだ足りない」と云い、更に答えを求めたわけです。

その返答が「喫茶喫飯」です。これは先に答えた「黒漆~・・・」が言葉だけの真意を答えたのであるが、後の喫茶喫飯はその答えから発展させ、日常に落とし込み、それを答えとしたのです。

お茶の時はお茶のみ味わい、ご飯の時はご飯のみいただく。そこに分別(好き、嫌い、美味しい、美味しくない)を起こさず、無分別の見識でいただく。今でいうところの「ながら」をしないという事です。まずは行い(主となる行い以外の行動)の「ながら」を止め、意識下(主以外での考え事)での「ながら」も止める事。

分別の心は煩悩の原因になります。分別をしない為には、その対象のみに向き合い、味わいつくす事が大切です。僧堂での食事や坐禅、作務、全て、この概念を基本として修行しています。

瑩山禅師はこの「喫茶喫飯」の言葉で机上の空論に留めず、仏法の真髄を日常に落とし込む言葉を徹通禅師に答え、それを聞いた徹通禅師は瑩山禅師の力量を認めたのです。

現在私達の生活は携帯やSNSの普及で食事中、掃除中、24時間どこでも暇を潰すことのできるツールがあります。凄く便利になって暇もなくなり一見いいように感じます。しかし、結果心が豊かになったかと言われればそうではありません。特に30代から上の世代は携帯がない時代でした。心の豊かさはどうでしょうか。便利になって楽しい事がなんでも直ぐできるのに心が乾いているのはなぜでしょうか?

仏教では今生だけではなく生まれ変わっても一切皆苦(全ての事は満たされることがない)と説いています。私もある程度の娯楽でごまかす事ができてもその真理から逃れる事ができない実感があります。

瑩山禅師の「喫茶喫飯」は私達の普段の生活にも役に立つ言葉ではないでしょうか。食事の時は携帯を話、テレビを見ずに食事に集中しましょう。食事以外の全ての行いを「喫茶喫飯」の心で行いましょう。無分別の心で日常を生活できればそこに「苦しみの種」が育つ隙間はありません。

その無分別の境地を参究できるのは宗門では坐禅であり、道元禅師の教えであります、本証妙修(悟り後も禅定力を保ち修行)、修証一等(修行=悟りそのもの)を瑩山禅師は見事に日常レベルに説いた言葉こそが「喫茶喫飯」といえます。

今回は「喫茶喫飯~茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す~」をご紹介いたしました。

※禅語紹介は住職の浅い見識で恥ずかしげもなく更新している日記のようなものです。暇つぶし程度に見ていただくのが正しい見方であります。禅語については書籍などをお買い上げしていただいた方がよっぽど為になります。苦情は受け付けていません(笑)どうぞ宜しく御願いいたします。

住職 慧嶽 匡宏 合掌

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