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12月坐禅会報告/住職日記(空っぽの坐禅)

坐禅会の様子

皆さんごきげんよう。今年最後の坐禅会を開催いたしました。

今回は10名の参禅者がお越しいただきました。

初めて参禅に来られた方は7名。坐禅会に来られた目的は様々です。

さて、私が毎回坐禅をする上で説明をしている事があります。

坐禅は日々の自己がそのまま立ち現れてきます。それは姿勢であり、呼吸であり、思考であり、心技体すべてが坐禅の最中に浮かび上がります。坐禅自体は「空っぽ」です。ですから、集中して坐禅ができるのもできないのも日々の自分が投影されている姿であります。

私が坐禅指導をする上で参禅者に意識していただきたいのが、坐禅以外の日々の習慣であったり癖のようなものを意図的に律し心や体に悪影響を与える習慣を手放す事をお話しさせていただきます。

どんな目的でも坐禅をしたところで坐禅になりません。坐禅の功徳は坐禅をする前後の生き方に影響する事が大きく、その生き方そのものが坐禅となり、日々の生活が安定していれば、坐禅も安楽として坐する事ができます。(曹洞宗の場合は十重禁戒などの戒律であり僧侶であれば行事規範なども)

その時に初めて坐禅そのものが仏の修行としてなり得ます。

私たちが生きる世界は損得勘定が働き、全ての行動原理には条件があります(お金を稼ぐには働くなどのすべて)。坐禅はそこから離れて、無条件の世界にてすべてを手放している状態になります。

ここに日々の生活と坐禅中との対比構造が生まれて、条件つけられた世界の形が見えてまいります(身をもって実感として気づく事ができる)。

難しくなってしまいましたが、結局のところ体験するしかないのが坐禅です。意味があるなしに限らず、是非一度体験していただきたいと思います。今の私(心技体)が全て投影されます。それを感じる事ができるだけでも良いと思います。

是非、お近くの坐禅道場にて坐禅を体験してみて下さい。勿論青岸寺でも坐禅会を開催しておりますので参禅に起こし下さいませ。

住職 慧嶽 匡宏 合掌

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